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これは地域保健WEB特設ページです。

保健師映画応援!『じょっぱり 看護の人 花田ミキ』

映画『じょっぱり 看護の人 花田ミキ』

青森のナイチンゲールとも評される人物、花田ミキ。戦中戦後の激動期に八戸赤十字病院で看護に携わり、集団感染が起きたポリオ(小児マヒ)の治療法を広めるなど、地域の人々の命を救う為に生き抜いた半生を映画化した『じょっぱり』が7月2日に恵比寿・東京都写真美術館で公開された。イオンシネマ新青森、イオンシネマ弘前 など、全国順次公開となる。
地域保健では、2021年9月にこの映画が製作されることを知り、2022年5月号の地域保健本誌「ピープル」で五十嵐匠監督にインタビューし映画にかける思いや願いを伺った。この映画応援の特設ページでは、これまでに地域保健編集部が行った本作品への取材協力を通して、読者の皆さんに伝えたい情報を順次まとめていく。

映画『じょっぱり 看護の人 花田ミキ』 ものがたり

シングルマザーとして息子リクの子育てに追われる日々を送っていたちさと(王林)は、仕事場のスーパーの常連である花田ミキ(木野花)と出逢う。人嫌いとして近所でも有名であった花田だが、ちさとやリクとの何気ない日々を過ごす中で、人のぬくもりに触れ、自然と心を通わせていく。
花田は自分がかつて看護師であったことをちさとに告白し、当時の社会情勢や自分が今日までどのような生き方をしてきたのかについて語り始める。花田の若い頃(伊勢佳世)の姿は、八戸赤十字病院で集団感染が起きたポリオの治療法を広め、看護に対して誰よりも懸命に向き合い、生き抜いた姿だった。ちさとは、幼い頃に亡くなった自分の母親も看護師であったことから、花田により親近感を抱くようになっていったのだが……。


出演:木野花/王林/伊勢佳世
監督・脚本:五十嵐匠
製作:ストームピクチャーズ
制作協力:かまくらさちこ株式会社
配給・宣伝:ポルトレ
後援:日本赤十字社/日本看護協会
2024年/日本/90分/カラー/シネマスコープ

◎映画『じょっぱり 看護の人 花田ミキ』公式サイト:https://hanadamiki.com/


地域保健に寄せられた映画の感想

  • 澤谷幸子さん(青森県在宅保健師の会・映画にもエキストラとして出演)
    【当時を知る私が感じた映画の中の「本物」】
    昭和46年、私は青森の下北半島を管轄する保健所へ採用され、その年の晩秋初めて結核患者の家を訪問しました。玄関に現れた40代の痩せた男性が、何しに来たと言わんばかりの顔で私をジーっと睨み、私は予期せぬ出来事に体が震え足がすくみ、我を忘れて逃げ帰ったのを今でも忘れられません。病気に対する怨念、仕事を失い困窮状態に陥ったつらさ、喪失感の中で味わう孤独などを理解するまでには、たくさんの経験と歳月が必要でした。この映画は戦前戦後の農村漁村で働く人の暮らしや病気に対する偏見、職業婦人の置かれた立場などを見事に描き出した貴重な作品です。「もったらころすな運動」は今の若い方にも十分通用する言葉。ぜひ劇場へ。

     
  • 浜田範子さん(青森県在宅保健師の会・映画にもエキストラとして出演)
    【スクリーンで再会できた花田先生】
    これは私たちの大先輩、花田ミキ先生の、看護、人、地域に愛と情熱を持った人生を描いた映画です。
    私はこの映画を観て涙が止まりませんでした。看護学校で教鞭をとり、県庁でのお洒落でバイタリティ溢れる先生の姿が脳裏に浮かび、自分の歩んできた道を懐かしく思い出したからです。いくつもの時代を乗り越え遠くに来た気もしますが、振り返るとあっという間。決して忘れることができません。看護職に憧れと夢を抱く小、中、高校生の皆さん、看護学生の皆さん、現看護職の皆さん、いいえ、日本国中の皆さん、映画を見て感動してください。
    命と向き合ってください。
    人を好きになってください。
    そして、ご自分の住んでいる地域を好きになってください。
     
  • 菊地頌子さん(特定非営利活動法人公衆衛生看護研究所 「保健師資料館」事務局長)
    【1000年先の未来に何を残すか】
    1941年の「保健婦規則」により女性の専門職として誕生した保健婦は、保健所や市町村に所属し、乳幼児死亡の改善や結核対策に取り組み、戦時下や戦後の厳しい暮らしの住民を支え病気の予防に奮闘しました。
    私たちはひたすら地域に入り活動した先輩の歩みを聞く度に、当時の活動資料を収集し保存をして公開し、現在や未来の保健師たちにつなぎたいと考え、全国の保健婦に呼びかけ2001年、長野県安曇野市に「保健師資料館」を建設、NPO法人で運営しています。
    今回映画製作の連絡を受け、資料館の会員に寄付を呼びかけたところ、会員のほとんどが花田ミキさんを知らない中で、全国各地から思わぬ寄付が送られました。青森で多発したポリオや結核患者への家庭訪問の苦労を知る会員が、当時の状況が映像で描かれることに共感したのだと思います。私は花田さんの活動を通して全国の保健婦たちの汗の結晶の映画として、多くの方々にぜひ観てほしいと願います。
     
  • 和泉慶子さん(『東京保健師ものがたり』著者)
    【現場で培った経験を後に伝える語り部に】
    “保健師の仕事は、命を守ること”その原点が、この映画にありました。「公衆衛生とは『みんなの健康』のこと。(中略)環境衛生、感染症対策、衛生教育、保健医療制度の組織化および社会保障制度改善……」(青森県立保健大学ホームページより)
    公衆衛生看護学を体現された花田ミキさんと時を超えて出会えて良かったと思います。
    この映画は、私にとって「保健師魂の着火剤」。地域の保健師がなすべきこと、そしてあるべき姿を教えてもらいました。花田ミキさんの言葉である「明日のために 昨日を語る」におおいに共感し、私も記録と継承を続けていきたいです。
     
  • 保健師Oさん(元特別区保健師/2022年5月「保健師さん車座の会」(後述)に参加)
    【予想や期待を裏切らなかったばかりか、そのななめ上を行く映画】
    映画撮影前に、若干名の保健師とともに五十嵐監督から直接受けたヒアリング。そのヒアリングの目的は「保健師は何をする人か、保健師活動を知りたい」だった。私は、昭和の時代に花田ミキというひとりの保健師が奮闘し、周囲の人々を巻き込んで、数々の難題をクリアしていく苦難のサクセスストーリーを予想した。そしてそのように思い込んで、この映画を、観た。
    確かに、花田ミキさんのじょっぱりぶりが、勇猛果敢な看護師、保健師として体現されていた。社会が、政治が悪い、と片づけず家庭訪問し支援を試み続け、無力感だけに終わらず、嘆き、憤り、怒るだけでなく、直面する課題を解決するため、世の中の仕組みを変えようと奮闘する姿は現代の保健師につながると思った。
    現代でも同じような経験をした保健師は少なくないはずだ。ワクチンはなく治療法も確立していないコロナ禍初期に、感染者やその家族と、電話であるいは訪問先のインターホン越しに支援したあの時。困窮した外国人妊婦の出産や育児を、言葉が通じないまま支援したあの時。雑多な品物やゴミが床から天井まで積み重なる中で、毛布1枚丸くなって寝ている一人暮らしの高齢者を支援したあの時。そのような「あの時」を経験した保健師は、事態を改善するための工夫や知恵を職場で話し合ったのではないだろうか。「前例がない」と反対されても、周囲を説得し続けて前例を作った保健師、「上司にハイハイと答えながら、結局は保健師の思い通りの結論を出す……」と粘り強い上司交渉を揶揄された保健師もいるはずだ。そんな覚えのある保健師が、うなづきながら観る映画だ。
    しかし、単に保健師活動に着目し保健師を礼賛する映画ではなかった。
    過去の保健師活動から離れた現代のふたつのシーンが、最も私の心に残る。冒頭のスーパーマーケットのシーンで話題に上る、偏屈な一人暮らしの高齢女性は、馴染み客のようだが 地域で交流する人はなく、正体は不明。職業の紹介はなかったが、「これは私(保健師)の将来の姿だ」と瞬時に思った。シングルマザーのちさとがカラオケの後に主人公に子ども時代のさびしさを訴えるシーンは、「これは私(保健師)の子どもの声だ」と身に染みた。
    昭和の保健師たちは、わきめもふらず仕事とともにひたすら走りぬき、私にも子どもに心の冷えるさびしい思いをさせた覚えがある。そんな保健師の家庭や家族にまで踏み込んだ映像に、参った。当初の私の予想や期待を裏切らなかったばかりか、そのななめ上を行く映画でもあった。
     
  • 保健師Kさん(市町村保健師)
    保健師学生時代、ミキ先生の特別講義を受けました。話として聞いていたミキ先生の看護・保健活動を映像で見ることができて、よりしっかりと記憶に刻まむことができたように思います。青森の保健師はミキ先生の姿からいろいろ学びました。そのことを思い出しました。今の時代を見たらミキ先生は何て言うのかな~と思ったりもしました。
     
  • 保健師Yさん(特別区保健師)
    クラウドファンディングのリターンとして期間限定のオンライン視聴権を得た私は、『じょっぱり 看護の人 花田ミキ』に続くねぶた囃子、じょっぱりオーケストラを50回は再生しただろうか。オンラインならではの鑑賞方法の一つだったと思う。その後、劇場の大きなスクリーンで字幕付きの上映も観に行った。観終わって、身の回りのことと重ねてこう感じた。
    人と人、人の熱意と熱意がつながって思いもよらない一幕が開ける。「予期しない出来事の連続が、人生」。
     

映画をご覧になった方は、ぜひご感想をお寄せください。


地域保健が映画を応援するようになったきっかけ

映画監督の五十嵐匠さんが青森県に実在した保健師花田ミキさんの映画を製作する-編集部がそれを知ったのは2021年9月、保健所保健師さんのコロナ禍での窮状を訴える声が編集部に相次ぎ企画した「緊急オンライン集会」の開催を直前に控えていたとき。映画のプロデューサー鎌倉幸子さんからイベント参加希望のメールをいただいたのが始まりだった。

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(鎌倉幸子さんからのメール)
テレビなどでは見ることもありますが、保健師の皆さまのリアルな現状を知りたく、申し込みました。病気を治す「看護」に目が行きがちですが、保健師の方が取り組む「予防」がとても大切だと思っています。当日はどうぞよろしくお願いいたします。

:*゜..:。明日のために、昨日を語る :.::.*゜:.。:..:*゜
映画「じょっぱり看護の人・花田ミキ」事務局 鎌倉幸子

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鎌倉さんとメールのやり取りをするうちに、監督も事務局の鎌倉さんも青森県の出身であること、映画の製作はこれからで、2023年の公開を目指していることなどを知り、映画が完成した際には、地域保健の情報BOXコーナーで紹介したいと申し出て快諾を得た。偶然ではあるが、いま振りかえるとそのやりとりをしていたのは、花田ミキさんの誕生日でもある9月9日のことだった。


雑誌『地域保健』2021年9月号に掲載した「保健師さん応援企画 緊急オンライン集会」の告知画像。


2歳のときに花田ミキさんに命を助けられた映画監督 五十嵐匠さん

緊急オンライン集会の翌月、再び鎌倉幸子さんからメールをいただく。編集部に一度挨拶に来てくださるとのことだったが、なかなか日程調整ができないまま、年を越した。映画の企画書から、監督の五十嵐さんが抱くコロナ禍にあえぐ保健師の応援をしたいという思いを知り、読者の皆さんにも知ってもらいたいとインタビューコーナー「ピープル」の取材を申し込み、快諾を得た。

インタビュー収録は2022年2月に決まった。この時期はインタビューや取材は、ほぼ全てオンラインで行っており、当初は五十嵐さんにもオンライン取材のつもりでコンタクトをとっていた。しかしすぐに五十嵐監督から「オンラインではだめです。直接会って話さないと伝わらない」とメールをいただき、コロナ禍以降、久々の対面取材として、浦和にある株式会社ストームピクチャーズに伺った。

このときの五十嵐さんのお話は2022年5月号に掲載し、同年7月に地域保健WEB「地域保健ネットワーク」コーナーにPDFで公開中。

→ 五十嵐匠さんのインタビュー記事を読む


『地域保健』初代編集長に教えてもらった花田ミキさんとの関係

五十嵐監督のインタビューを終えて約1か月後、2022年5月号の初校がちょうど上がってきた頃、たまたま地域保健の創刊者である初代編集長に会えることになった。親しくしている保健師さんのお一人から、「今度初代編集長のご自宅を訪ねるから一緒にどう?」と誘ってもらったからだ。地域保健の創刊より10年以上前、『生活教育』という他誌で編集をしている頃の話とともに、その頃の特集タイトル一覧などを見せてもらった。花田ミキさんのことを尋ねてみたところ、「知っているも何も、青森の取材では公私ともに大変お世話になった」と当時を振り返って話してくれた。

この頃の五十嵐さんは、インタビュー記事にあるようにドキュメンタリー映画を撮ろうとしており、そのために花田さんを知る人たちの証言や記録を集めている最中だったのではないだろうか。しかし残念ながら地域保健本誌の1970年の創刊号から、花田さんが青森県を退職する1973年までの間に花田ミキさんが登場する記事は見つけられず、当時の詳しい記録や記憶にもつなげることはできなかった。現在の編集部では、初代編集長と一緒に仕事をすることはこれまでなかったが、いまでも編集部には初代編集長あてにご連絡をいただくことがたびたびある。大先輩がお世話になっていた花田ミキさんの映画なら応援せねばと考えていた。このことは後に、映画のクラウドファンディングサイトで応援メッセージとして書かせてもらったのでリンクを記載する。

READY FOR「じょっぱりー看護の人花田ミキ」命の尊さを綴る映画制作プロジェクト
応援メッセージ「保健師さんたちに育ててもらった雑誌として」地域保健


「保健師さん車座の会 映画監督五十嵐匠さんを囲んで」開催

2022年5月号を発行して間もなく、五十嵐さんから現代の保健師の話を聴く機会はないかという相談が寄せられた。まだこれから製作する映画ということもあり、どこまでオープンにして参加者を募集してよいものか見当がつかず、ひとまず何人か、古くからの地域保健読者の保健師さんたちに声をかけ、弊社の会議室に5月29日(日)に集まってもらうことになった。

古いバックナンバーや、花田ミキさんの参考資料などを会議室に並べて皆さんが来るのを待った。
参加する保健師さんは3名。そのうち2人は特別区に勤務する現役の行政保健師さん、もうお一方は、行政保健師、大学教員、フリーランスなどさまざまな立場を経験された保健師さんだった。

映画公式Facebookページにあったこの日の記録を紹介

「保健師のみなさんの仕事を知りたい!」そんな願いをお受けいただき、保健師のみなさんが日曜日にもかかわらず、お話をうかがう機会をつくってくれました。
「命と暮らしと健康を守る」
「その人らしく地域で暮らせること」
人権を守るため使命を持って仕事に取り組んでいらっしゃる姿勢に感銘を受けました。
今回、ご多忙の中、このような会をアレンジいただいた地域保健 さん、本当にありがとうございます。
創刊号からの展示も圧巻でした。
青森県の保健師さんとの車座会も、早くできるとよいな。

花田ミキ役の俳優さんと「保健師さんから話を聴く会」の相談

車座の会から数か月、夏に決まった地域保健の休刊のことなどがあり、しばらく映画のことから遠ざかり慌ただしく過ごしあっという間に迎えた編集部の年末。残すところ今年の営業もあと数日というときに久しぶりに鎌倉さんからお電話をいただいた。

映画製作は当初予定していたドキュメンタリー映画から劇映画に変更し、配役も決まってきた段階だという。「花田ミキ役を演じる俳優さんに現場の保健師さんたちの実際の話を聴いてもらいたいのだが1月中にできるだろうか」という相談だった。1月中ならと個別に連絡の取れる保健師さんたちに連絡をまわしてもらい、候補日の調整に入る。返事は正月明けになるかなと思っていた12月30日、希望日程の返事を届いた。

2023年1月9日(月・祝)10時~

年明けの営業開始は1月5日(木)。2日間で会社に報告して準備して、ヨシ。何とかなる。
開催まで時間がないこと、弊社の会議室に来られる人ということで、数人の参加が見込めればと思っていたが、当日集まった保健師さんは8人で、首都圏にお住まいの方だけでなく、大阪府、滋賀県、徳島県など遠方からの参加も見られた。監督とプロデューサー2名、花田ミキ役を演じた伊勢佳世さんと鈴木治子役を演じた相馬有紀実さん、編集部2名で合計15名が集まり語らう会となった。

途中、昼休憩の際、急に始まった五十嵐監督の演技指導や俳優さんの台本読み合わせに、保健師さんたちが驚く場面も見られた。

現場の保健師の語りに、五十嵐監督も俳優さん方も熱心に耳を傾けてくださった。


五十嵐さんの映画製作への決意 「保健師のことを世の中に伝えたい」

1月9日の「保健師さんから話を聴く会」から少しした頃、会の名前は少々長いのでいつしか「保健師ヒアリング」と呼ばれるようになっていた。

保健師ヒアリングの内容は、俳優さんだけでなく、スタッフの方も録画した内容を共有してくださったと後から聞いている。監督もプロデューサーも、そして我々編集部と参加してくださった保健師さんも、保健師ヒアリングを通して花田ミキさんの言葉に学び、それぞれに刺激を得ていたのではないだろうか。映画のクラウドファンディングもいよいよ始まるというタイミングで、あるメディアが監督の五十嵐さんにコメントを求めた際の全文が2023/1/14(土)、鎌倉さんから送られてきた。

映画「じょっぱり看護の人花田ミキ」は、自分の身を顧みず「保健と看護という職業」に命を捧げたひとりの女性のたくましさと、やさしさ、そして命の尊さを伝える作品です。 コロナ禍の現在、伝説の看護の人花田ミキさんの看護に命をかけた波乱万丈の生きざまを映画化し、戦争の悲劇、命を守る保健師の原点、そして「この時代を生きる」ことの大切さを伝えていきます。

花田ミキさんが八戸市の日本赤十字病院の婦長をしていた19496月、市内でポリオの集団感染がおこりました。ワクチンがない時代、花田さんは単身上京し、GHQのナースから治療法「ケニー療法」の情報を得ます。青森に帰ると看護チームをつくりその療法を続けるとともに、新聞にその方法を掲載し人々に分かりやすく紹介しました。また、1950年、青森県庁に創設された衛生部看護係の係長として着任すると、青森県高等看護学院(現在の青森県立保健大学)の設立に着手。1964年には全国最悪の乳児死亡率を減らすため、保健婦・助産婦と共に「もったらころすな運動」を展開します。1965年には保健婦不在の町村をなくすため「派遣保健婦制度」を確立し、青森県内のすべての自治体に保健婦を配置しました。

 私は今回、保健師の仕事をしっかりと伝える映画にしたいと考えています。保健師の仕事はなかなか理解されていないと感じています。保健師になるには看護師国家試験及び保健師国家試験に合格しなければなりません。
看護師は、病気やケガに苦しむ人の治療を中心とした業務を行っています。保健師は、公衆衛生の向上、健康診断の実施など病気やけがを未然に防ぐ「予防」を通じて人々の健康を守るために活動をしています。 

花田ミキさんも、結核のため戦場から帰還した1943年、看護教員と保健婦の資格を取得し、看護師が行う治療を中心とした業務だけではなく、保健師として「予防」に力を入れることを決意し、青森県の公衆衛生のため尽力しました。

 新型コロナウイルス感染症の影響で、全国の保健師は必死になってがんばっています。この映画を通じて保健師の仕事、役割、思いについて、しっかり伝えていきたいと考えています。

 私はコロナ禍で命を顧みず必死に戦っている医療従事者の皆さんにエールを送ろうと思い、また、命の恩人花田ミキさんの映画を企画・制作することを決意しました。

 青森県民の命を守るため尽力し続けた花田ミキさんについて、この映画を通じて一人でも多くの青森県の皆さんに知っていただきたいたいです。クラウドファンディングへのご支援、どうぞよろしくお願いいたします。

五十嵐さんはロケ地をまわっているため、鎌倉さんが電話で五十嵐さんのコメントを聞き取り文字に起こしてまとめたのものだという。
このコメントが添付されたメールには、鎌倉さんの次のようなメッセージもついていた。

「掲載されるスペースにも限りがあるので、保健師についての記述も全部は載らないのではないかと思います…。せっかくなので見てもらおうと思い、お送りしました。この前のヒアリングを受けて、保健師の映画をという思いを強くしたようです」

このコメントは保健師の皆さんにお伝えしたく、今回特設ページを作るきっかけにもなった。


映画撮影地である青森県佐井村に取材のお誘い

「佐井村の映画ロケを取材にきませんか」そのお誘いをもらったのは2023年2月下旬。撮影は3月4日(土)~6日(月)。編集部では3月6日は午後にすでに別の取材が埼玉県で決まっていた。東京から佐井村までの片道の移動時間を調べると、約7時間かかる。行こうと決めるまで少し時間がかかったが、なかなかない貴重な機会だと覚悟を決めて行くことにした。1月の保健師ヒアリングに参加した保健師さんたちにも、もしかしたら「知ってたら行ったのに!」と後からおっしゃる方もいるかもと思いお知らせした。さすがに西日本からの参加者はいなかったが、東京から2人の保健師さんが取材に同行するという。もしかして青森の保健師さんの中にも、行きたい人がいるかも……。宿泊は佐井村の宿が撮影クルーでいっぱいになっていたため、佐井村の少し北、マグロで有名な大間町に宿をとった。大部屋で5~6人が泊まれるようなのでまだもう少し余裕がある……、試しにtwitterで佐井村取材の参加希望者がいるか呼びかけてみた。

……なんと、青森にも参加希望の保健師さんがいた!

こうして編集部1名と東京の保健師さん2名、青森県の保健師さん1名の計4名で、青森県の地図にあるまさかりのような形の下北半島を、バスでぐるりとまわって佐井村に向かうことにした。
現地では映画の撮影現場も見せてもらったが、佐井村での地域保健的な話題といえば、やはり花田ミキさんの教え子でもあり、派遣保健婦の経験もあり、映画にも出演された二人の保健師さんを紹介したい。青森県の在宅保健師の会に所属している、澤谷幸子さんと浜田範子さんに話を伺った。

【佐井村ロケ取材レポート】
「青森県の保健師花田ミキさんから受け継いだもの~退職保健師の話から~」2023-03-15

「懐かしい! 地域保健ですね」
「現役時代はよく職場で回覧していましたよ」
これはかつて花田ミキさんの教え子であり、青森の下北エリアで保健師活動に従事していたという退職保健師のお二人にお目にかかったときの第一声だ。
令和5年3月4日(日)朝、佐井村にある民宿の一室で、澤谷幸子(さわや・さちこ)さんと浜田範子(はまだ・のりこ)さんに、花田さんとの思い出、当時の下北エリアでの保健師活動についてお話を伺った。

お二人の出演シーンの見学は、残念ながら撮影に間に合わず見ることができなかったが、かつて地域の健康寸劇で鍛えた保健師さんが「下北のかっちゃ」姿を演じたときの写真が、映画の公式クラウドファンディングの活動報告ページにあるのでぜひご覧いただきたい。

https://readyfor.jp/projects/hanadamiki/announcements/258729


2024年7月2日 木野花さん、伊勢佳世さん、五十嵐匠さんの舞台挨拶より

映画監督 五十嵐匠さんの挨拶より

「日本映画は年間に1,200本できているそうですが、その中から平日のこの時間にこの映画を選んで見に来てくださり心から感謝します。僕は2歳の頃、青森の列車の中で急病のため呼吸が止まり、映画に出てくる花田ミキさんに助けられました。つまり花田さんがいなかったら僕はここにいないわけです。自分が死ぬまでに何とか花田さんを映画にしようと思っていましたが、素敵なキャストとスタッフに恵まれ、そしてサポーターの皆さんの協力のおかげで今日を迎えることができました」

花田ミキ役を演じた主演の木野花さんは故郷青森への愛着も交えて映画への真剣な取り組みを語りました。

「私は青森の出身で、大好きな津軽弁を使えることもあり喜んでこの役を引き受けしました。脚本を読み、花田ミキさんが青森のナイチンゲールとも評され、大変功績のある方だと知り、こんな方が青森にいたのかと、なぜいままで知らなかったのかと驚きました。私が演じたのは晩年の花田さん。老いて、自らの病気を知り死を迎えようとしている、人と会うのを拒むような孤独を抱えた役どころでした。自分の年齢を考えると、演じるというよりは、いかに自分の老いや死と向き合う気持ちを隠さずに出せるかということが難しく、また考えさせられました。老いや死は、役者としては普段は隠したくなるものですが、それをあえて隠さずに花田さんを生きる、まるで自分を追い込むような、そんな気持ちで取り組みました。撮影の後半、もう私なのか花田ミキなのかが分からなくなるくらい、演じたのかな、生きたのかな、そんなことを思いました。この映画に出演できて本当によかった。地味ですが伝えていかないといけないことがたくさん詰まっています。絶対にたくさんの人に観てほしい映画です」

一方、花田ミキの若い時代を演じた伊勢佳世さんは、青森県出身の出演者が多い本作品の中で神奈川県出身。津軽弁のセリフにとても苦労したそうです。鈴木治子役を演じた相馬有紀実さんは監督とともに方言指導も担当し、伊勢さんのセリフを全部録音してプレゼントしたとか。

「台本をいただいたとき、花田ミキさんはエネルギッシュでチャーミングで、木野花さんのイメージにぴったりだと思いました。その若い頃を演じるのにすごくプレッシャーを感じ、とにかくエネルギッシュに演じようとしていました。でも現場で監督に、もっと伊勢さんでいいんだよと言ってもらい、ずいぶん気持ちが楽になったのを覚えています。そこからは、現場で本当に自分自身が感動したり、泣いたり、笑ったりしたことをすごく大事にして演じられたかなと思っています。私は今回の作品で、ポスターに書かれた『人は人のために生きてこそ、人』のことばの重みを感じています。私も含め、自分のことでいっぱいいっぱいになりがちだけど、小さなことでもいいから誰かのために何かをする、みんなの中にそういうことが芽ばえたら優しい社会になるのかもと思いました。これも花田さんの生き方から学んだ点でした」

五十嵐さんは

「さきほど木野花さんが、演じたではなく生きた、とおっしゃった。僕はやはり、この作品の中で、二人とも花田さんを生きたのだと思います。実際の人物を描くというのはけっこう難しいものですが、作品での花田ミキのセリフは、実際に花田さんが話した記録や本をもとに脚本を書きました。脚本を書く前野の調査の段階では、全国から保健師さんに集まってもらい、現代の保健師がどんな仕事をしているのかなども教えてもらいました。若い時代の花田さんの撮影は、青森県の佐井村が舞台です。佐井村は青森県の地図でいうとまさかりのような形の下北半島をぐるっと回りこんだところにあり、花田ミキさんが過去に実際に訪ね歩いた土地の景色が広がります。そこもぜひご覧ください」と続けた。

五十嵐さんは「以前僕が撮った映画の『二宮金次郎』もこの東京都写真美術館から始まり10万人が観てくれました。この作品は、きょう、ここが一発目。映画を観ていいと思ったら口コミで広げていってもらい、10万人を超えるような作品になればと思っています」

と、初日の舞台挨拶で来場者に呼びかけた。


活動報告:第12回日本公衆衛生看護学会ワークショップ

2023年1月の保健師ヒアリングに参加したのをきっかけに、花田ミキさんに興味を持ち、映画の応援をして参りました。多くの保健師の仲間と共に映画の公開を楽しみにして迎えたいと思い、2024年1月の第12回日本公衆衛生看護学会学術集会にてワークショップを開催しましたので報告いたします。


このほか、映画に関連する記録を順次追加予定

上映館のお近くの方は、ぜひ劇場へ。

【おまけ】映画に出てくる青森の方言

・~だはんで → ~だから

・わんつか → 僅か、少し

・じぇんこ → お金

・まいね、まね →だめ

・へば → じゃあね それでは

・えんつこ → かご(嬰児籠 赤ちゃん用の籠)

・さしね → うるさい

(最終更新2024/7/19 地域保健編集部)


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