【取材レポート】映画『じょっぱり-看護の人花田ミキ』佐井村ロケ
「懐かしい! 地域保健ですね」
「現役時代はよく職場で回覧していましたよ」
これはかつて花田ミキさんの教え子であり、青森の下北エリアで保健師活動に従事していたという退職保健師のお二人にお目にかかったときの第一声だ。
令和5年3月4日(日)朝、佐井村にある民宿の一室で、澤谷幸子(さわや・さちこ)さんと浜田範子(はまだ・のりこ)さんに、花田さんとの思い出、当時の下北エリアでの保健師活動についてお話を伺った。
青森県の保健師花田ミキさんから受け継いだもの ―退職保健師の話から
澤谷幸子さん(写真左) 浜田範子さん(写真右)
映画『じょっぱり-看護の人花田ミキ』映画製作スタッフが宿泊中の民宿で。窓の向こうには海が見えた
浜田さん
「私が入った頃は川内町でしたが、平成17年3月の市町村合併でむつ市川内町となりました。振り返ると、自分が生まれたところよりも長く下北で保健師活動をしてきたことになります。むつ市を退職してからは活動を川内と脇野沢という地域に限定し、健診や健康教室などのお手伝いをしてきました。私は人とお話するのが根っから好きなので、いまは若い人や地域の人たちと顔を合わせて交流するのを楽しんでいます。いろいろと活動してきましたが、自分が後期高齢者になり、いまは主人と二人で軽い農作業をするなど、少し静かな生活を送っているところです」
澤谷さんは六ケ所村読書愛好会副代表の名刺を出しながら話してくれた。
澤谷さん
「私は、読書愛好会のある六ケ所村に深いご縁があるんです。現役時代、六ケ所村には2回派遣保健婦としてお世話になりました。花田先生が昭和40年度から始めた派遣保健婦制度によるもので、新卒採用の保健婦が3年ずつ派遣されていました。当時はへき地に行く人が誰もいない中、私は1回目の六ケ所村勤務は昭和46年4月から3年間、その後脇野沢に異動し、その後2回目の六ケ所村に3年行きました。読書愛好会には、初代会長さんが亡くなったときお通夜に行ったのがきっかけで誘われて入り、いまは原発・エネルギーのことを学ぼうという活動を読書会で行っています。」
澤谷さんの名刺の裏には青森県在宅保健師の会のほか、県の難病患者等訪問相談員や事業所の健康管理、小学校の地域コーディネーター、教育委員会の読み聞かせグループなどボランティア活動がずらりと並んでいた。
「皆さん、介護だ、孫の世話だと何かと忙しいようです。人口が少ない町でなり手がいなくて困っていることがあるなら、と頼まれたものを次々に引き受けているうちにこうなりました。そろそろやめたいと思うのですがなかなか」と澤谷さんは笑う。退職してからの方がむしろ忙しいそうだ。
花田ミキさんとの思い出から
お二人は青森県立青森高等看護学院(現:青森県立保健大学)で花田さんの講義を受けた生徒で、保健師として働くようになってからは、県の管理職としての花田ミキさんに関わってきたという。印象に残っているエピソードについて教えてもらった。
澤谷さん
「私が脇野沢で働いていて、人手が足りなくて困っていたとき、昭和48年だったので花田先生が退職されるタイミングでとても忙しい時期だったはずですが、花田先生がたった一人でお付きの人もなく来てくれたことがありました。花田先生という人は、とにかくなんでもすぐに実行する人でしたよ。いかに女性が生活しやすく、どういう制度が必要か、どんなことを企画しないといけないかを常に考えていたと思います。下北と言えば漁港が点在する地域で漁師が多い地域です。妊娠は病気ではないからと、産後すぐに働き手として家事と育児と仕事に復帰させたりなど、妊産婦はかなり過酷な状況に置かれていましたが、花田先生が立ち上げた派遣保健婦制度もそういう女性たちの状況に応じて必要な支援の仕組みを考えるところから始まっていて、情の厚い方だったとつくづく思います」
浜田さん
「私にとって花田先生とは、下北に来るきっかけをつくってくれた方です。私は看護師に憧れて看護学校に入ったのですが、病院実習でいろいろな患者さんと接するうちに、こんなに病状が重くなる前に何とかできなかったかと考えるようになりました。その頃、大病院にかかる時点ですでに治療の施しようがないという人も多かったのです。そこで私は公衆衛生を学び保健婦になろうと方針転換したのですが、ちょうど十勝沖地震があった後で、新卒採用の予算が災害対応のために削られる市町村が多く、就職がなかなか決まらず悩んでいました。そんなとき花田先生から県庁に呼ばれ、私の実家近くの新郷村で、保健師の採用の話があるがどうかと声を掛けられたのです。花田先生は私の出身がどこで、そこから新郷村への交通はバスで行けるとか、もう全て把握されていました。話を聞いてみると、新郷村の村長は自分の村には3つの1番があると言っていて、出稼ぎ、乳児死亡率、自殺率でした。小さい村ですでに自分の母親程の年齢のベテラン保健婦が2人いるが、その課題を何とかしようと3人目の保健師を採用したいのだと分かり、新郷村で働くことになりました。最初の家庭訪問は徒歩かバスでしたが、村で自動車運転免許を取らせてくれたり、活動用に車を買ってくれたりする熱意のある上司に恵まれ5年程そこでお世話になりました。その後は川内にいるいまの夫とお見合いの話があり、川内町の国保保健婦として働くことになり、ずっと下北にいることになりました」
青森高等看護学院に授業に来る花田ミキさんは、教材を風呂敷に包み、忙しい中バタバタをやってきて、講義で熱弁する。こう聞くと力強く、固い表情の女性をイメージしてしまうが、実際の花田さんには華やか、おしゃれという印象で、花田さんが好きだったという紫色のスーツを着て、襟元にはネックレス、青森県庁では女性管理職の第一号として男性社会では、かなり目立った存在だっただろう。
過去の結核患者と現代の新型コロナウイルス感染症対応との重なり
澤谷さん
「私は結核の患者さんとの思い出がとても深いです。昭和46年に新卒採用の保健師として結核患者の訪問に行ったのですが、玄関に入るなり、訪問先の男性に『何しに来たんだ』とすごく冷たい目で見られたんです。もう本当にどうしたらよいか分からなくなってしまって、あのときの男性の目がいまでも忘れられないんです。いま考えると保健所から保健師が訪問するということを周囲に知られたくないという気持ちもあったかもしれません。それだけ結核患者は差別されていたということだったと思います。映画にも結核患者が登場しますが、それを知り自分が家庭訪問で会ったあの男性はその後どうしただろうかと思いました。当時その方は家族を抱えていましたし、仕事をしようにもできなかっただろうし、そうなると生活保護になるのですが、当時は保護費も安かったんですよね。いまでは結核だといっても何も問題がないのですが、当時の差別はつらかっただろうとこの映画であらためて考えさせられました。日本の歴史の中でいかに病気を持っている方の生活が悲惨だったか、花田先生が県庁という男性社会の中でいかに大変だったか、映画で五十嵐監督がしっかり描いてくれていると思いますよ。予算のつくり方も知らなかった人が突然県庁に入ってきたのですから、花田先生は周りからは、一体何ができるんだと言われたはずです。結核予防のためのツベルクリン注射を何人こなしたか数を競うような時代だったことを考えると、いまの新型コロナウイルスのワクチン接種を取り巻く状況とどうしても重ねて考えてしまいますね」
2020年からのコロナ禍には、澤谷さんも在宅保健師として新型コロナウイルス対応の関連業務に従事したという。
澤谷さん
「むつ保健所の感染者数は少ない方でしたが、弘前市や青森市、八戸市あたりは大変だったと思います。私も水を飲む暇もないくらいの忙しさを体験しましたが、東京の皆さんもさぞ大変だったでしょう。テレビや新聞の報道を見ていると、疲れて倒れる寸前の保健師がテレビに映し出され、仕事もやめてしまいたいだろうに、自分がやめると同僚に負担がかかると考えるとできないと苦しむ保健師が紹介されていました。コロナ禍で保健師の仕事がガラっと変わってしまって、若い保健師の方々は、すっかりコロナの対応が保健師としての仕事だと思ってしまっているのではないか、本来の保健師としての仕事がもう忘れ去られているのではないかと心配しています。保健師としての芯を失ってしまったような感じというか……。早くコロナも落ち着いて本来の仕事ができるといいのですが、若い保健師たちにきちんと指導する先輩がいなきゃいけないと思っています」
もしいま花田さんが現代でコロナ対応にあたる若い保健師を見たら、どんな言葉を掛けると思うか聞いてみた。
澤谷さん
「そこですよね。役職者が出席する予防接種全盛時代の会議で、予防接種の数を競うような議論にたまりかねた花田先生が、それは保健師の本来やるべき姿と違うと発言したことがあるそうです。周りからは、県の指示で保健婦を動かしているのに花田は何を言うかと激しいバッシングを受け、あの気丈な花田先生がボロボロと涙をこぼしたと『花田ミキという生き方』という本にも書いてありました。もしいま、花田先生が生きていたら、やっぱりきちんと若い人に向かって、予防接種も確かに大事だけど、それによって減らしてはいけないもっと大事なものがあると指導してくださったんではないでしょうか。限られた時間の中でただ件数をこなすだけでなく、そんな状況にあっても、保健師の機能、働き、役割を伝えなければならないと思っています」
映画を通して若い保健師の皆さんに知ってほしいこと
お二人は映画にもエキストラとして出演している。まだ詳しくはお伝えできないが、映画の中で非常に重要なシーンに関わっているという。映画が完成したら、映画を見た人で集まってもらい、あらためてお二人に撮影秘話などを語ってもらいたい。いまお伝えできる映画の見どころを少しだけ教えてもらった。
撮影を見学させてもらった帰りに、海沿いを歩いてみた。冷たい風が強い
澤谷さん
「映画の中にも出てくる『もったら殺すな運動』ですが、そのネーミングはとてもショッキングで強い訴えだと感じる方が多いと思います。でもせっかく生まれてきた子どもがなんとか育っていけるような環境、生活、医療、それらをどう整えていくか、それは下北で活動する保健師にとってとても大事な視点でした。下北での保健師活動を振り返り、悪路や交通の便の悪さなどを思うと、結局は地域の貧しさが根っこにあるんだなと痛感します。私は脇野沢で働いていましたが、妊婦さんが健診で脇野沢からむつ総合病院に行くのも、それはもう大変だったんですよ。そうした大変さを、五十嵐監督は映画でしっかり描いてもらったと思います。私たちが仕事していたよりもっと前の時代がさらにどんなに悲惨だったか、いかに虐げられていたかを若い人たちにもぜひ見てほしいです。妊娠は病気でないからすぐ仕事すればいいとか、生まれてからも妊婦の食事は、おかゆと味噌だけなど、昔からの風習も多かった。陣痛が始まってから戸板に乗せて産婆さんのところに運ばれてくるとかね。私たちのひと昔前まではそれが普通だったのです。見えにくい保健師の活動を、映画という形にして見せてくれるというのはすごいことだと思います」
浜田さん
「介護保険もデイサービスも地域包括支援センターも、何もなかった時代は、妊産婦もそうですがお年寄りも本当に大変な状況におかれていましたよね。産婦さんの食事の栄養が不十分だったという話が先ほど出ましたが、寝たきりのお年寄りの食事も口当たりのよいものを食べさせればよいと言われていて、ミカンやモモの缶詰をご飯のおかず代わりに食べさせるようなことが行われていました。そうした状況で寝たきりのお年寄りに褥瘡ができたときなどは、傷がふさがるわけがないですよね。せめて卵や魚やタンパク質を思いますが、そういうことも伝わりにくい時代だったのです。それと、個別に医師の往診を頼んでも来てくれないような状況がありましたので、川内町では共同訪問という仕組みをつくり役場から医師に依頼する形で往診に巡回してもらうようにかけあったりもしました。寝たきりで清拭が続いている方がお風呂でお湯に入りたいというので、当時は特別養護老人ホームがあったのでそこで入浴が受け入れようとかやったりしてきました。いまでいえば食事の事やお風呂のこととか、日常の基本的なこと、これは人として、ただ当たり前の事がしたいということですよね。時代の流れはありますが、私も基本は花田先生の『一人一人の人間と、家族と、地域を忘れない』という言葉だと思っています」
澤谷さん
「私たちは本当に花田先生に育ててもらったと思います。まず高等看護学院を作ってくださったということ、そして保健所に入ってからは新人として2年間育ててもらってから派遣保健婦や駐在保健婦もやらせてもらったということ。その派遣保健婦制度にしても、何もなかったところから大変なところを乗り越えてよくつくってくれたという凄さがあります。花田先生は戦争を体験して、芯から命の大切さを感じたからこそだと思いますが、そういうところも若い人たちに見てほしいところですね」
青森県は派遣保健婦制度や駐在保健婦制度を通して、県と市町村の保健師が活動を共にすることで特に下北エリアにおいては一体的な活動ができているという。東日本大震災のときの保健師応援派遣の多くは都道府県の保健師だったが、比較的被害の少なかった下北エリアの市町村保健師がいち早く応援派遣に申し出があったこともそれを示しているといえるだろう。
そして、保健師として大事にしたいものの一つに予防がある。この予防の大切さについても、映画でどのように描かれるかおおいに期待している。
佐井村にある「願かけ岩」古くから神の宿る岩山として地元の人の信仰を集めているという
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