藤本さんの講演旅行記

web版 講演旅行記-17 通算第35回
岩手県奥州市

2019-09-13

本誌の読者からのご依頼で訪ねる事になった遠方での講演。お招き頂いたお礼を兼ねて、皆さんにその土地の魅力や旅行の顛末を紹介しているのが、この「講演旅行記」である。
だから、本誌と無関係な形での講演や旅行は、原則として取り上げていない(前回の「自転車日記」は例外中の例外(;^_^A)。
しかし、今回の奥州市は、「間接的×1、および無関係×1」―といった説明の難しい構図だが、一応ご紹介しようと思う。
事情は、お読み頂ければわかるはずである。

2019年2月末。大学時代の友人を通して「青少年育成アドバイザー養成講習会」という、何だか難しそうな泊まり込みの講習会の中で、講義をする事になってしまった。他の講師は大学の名誉教授とか教授が多い中で、ただ参加可能な時間の都合というどうしようもない事情で、トリで話す事になってしまったが、ま、偶発的に呼ばれたわけだし、私の知り合いが恥をかいて、来年以降は呼ばれる事もないだろう、と、いつものようにオチャラケた内容の講義をした。
終了後、懇親会があって参加者からヒンシュクを買うであろうと思いながらも言われるままに参加したが、存外、喜んでもらえていたみたいで、多くの受講者の方とも名刺交換をした。
その時に、岩手県奥州市の方が3人いらした。今までに何度も書いてきた通り、岩手には何度も喋りに行っているし、カミさんも岩手出身。だから、何となく親近感があってお話をしたが、物忘れが得意な私の頭は、すぐにそういった事を忘れていった(ちなみにこの講習には、また来年も呼ばれる事になってしまった…)。

5月。奥州市の健康増進課の保健師、Sさんから連絡が来た。
web版旅行記14、岩手県紫波町での「国保盛岡地区協議会」での講演をお聴きになった方が、「胆江・一関国保地区協議会保健活動部会」にも、私を呼んだらどうか、とおっしゃったそうで、7月末に来られないか、と。
ご連絡を下さったSさんは、本誌の読者ではないらしい。が、今回お呼びいただくきっかけとなった紫波町の講演は、本誌がきっかけだったわけで、つまり、これが、先程表現した「間接的×1」である。

奥州市…。そう言えば、最近、聞いた地名だな。あ、そうか、2月の研修か。私の頭にしては実に上等な事に、3カ月前の名刺交換を思い出したのだ。
で、3人の方の名刺を発見。
へぇ、フシギなご縁だなぁ、岩手には確かに何度も話しに行っているけど、ほとんど岩泉だし、特に県南部には個人的にも行った事がない、なのに、奥州市の方と初めてご挨拶した数か月後に、そこに呼ばれるなんて事もあるんだなぁ…。
実はお三方のお顔も思い出せないのだが、これも何かのご縁。私が当日奥州市をうろついていて、もしその方たちに目撃されたら、怪しまれるかもしれない、だったら、お膝元を訪ねる事を先にお知らせしておいて不審者通報されないようにしよう-と、名刺にメアドが書かれたお2人に、奥州市訪問についてメールでお知らせをしておいた。

すると、6月の末になって、2月に名刺交換をしたうちのお1人、Hさんから、保健師向けの講演の後に、自分の所でも1時間で良いから研修をしてくれないかというメールが来た。
Hさんの所属は奥州市社協が運営している「くらし・安心応援室」、それはつまり「生活困窮者自立支援室」の事だそうだ。
保健師向けの講演の方は13時半からの2時間で、懇親会はない。会場からHさんの所へは近い。だから16時から1時間研修をして、その後に懇親会もしましょう―という話。
これが先に書いた「無関係×1」の部分である。
なんだか、フシギな展開になったなぁ、そんな意図でご連絡したわけじゃないんだけどなぁ、でも、せっかくお近くまで行くわけだし、人とのご縁というのは大切にしないとなぁ―というわけで、そちらも引き受ける事になった。
どちらも直接的な本誌読者ではないわけだが、本誌の連載がなければあり得なかった展開には違いない。そんなわけで、今回ご紹介する次第である。

7月29日、9:14大宮発のやまびこ43号で水沢江刺に向かう。到着が11:38なので、2時間以上。もっと先の盛岡まで向かう場合は停車駅の少ない「はやぶさ」に乗るから2時間弱。ずっと近いのに30分程余計に時間がかかる。

これが「水沢江刺」駅。奥州市というのは、いわゆる平成の大合併で誕生した市である。水沢も江刺も旧市の名称だ。他のいくつかの町村も含めて奥州市となったが、駅ができたのはそれより20年以上前なので、こんな名前。もし今できたなら、奥州駅とでもなったんじゃないかな。
上の写真の中央のモニュメント。

しかし、これが何を表しているのか、残念ながらわからなかった。
この写真の右後方のアップがこれ。

「後藤新平と少年」と、題がついている。後藤新平って、聞いた事ある人が多いんじゃないかな。簡単に言うと、明治・大正の頃のスゴい政治家。いくつもの大臣を務めたり、東京市長(今で言う都知事)だった事もあったり。
水沢出身の偉人が3人いらして、後藤新平の他に、高野長英(たかのちょうえい)、斎藤實(まこと)と続く。後のお2人については後ほど触れるが、この写真の像の後藤新平の格好にご注目。ボーイスカウトなのだ。
実は私も子供の頃に、スカウトの端くれであった。アウトドア関係の基本的技術はそれで覚えた。イギリスの創始者の名前は今でも覚えているが、後藤新平については、その関わりを今回初めて知る機会となった。ボーイスカウト日本連盟の初代総長だったそうだ。少しだけだが、急に親近感を感じた。
駅に戻って右斜め前を見た方向には巨大な鉄瓶。

ただのモニュメントではなく、直径2.5m、重さ1.8トンで、日本最大のホンモノらしい。
ところでこの鉄瓶のような「南部鉄器」。江戸時代の「南部藩」と関係がありそうだというのは誰もが気づきそうな事。実際、盛岡の南部鉄器はまさに「(南部)盛岡藩」の地名に関係がある。
しかし、だ。後で紹介するが、ここは南部藩ではなく、「(伊達)仙台藩」の土地なのだ。これは今回の旅で初めて知ったのだが、この鉄瓶を見た時点ではそれを知らず、「大きな『南部鉄瓶』だなぁ」と、何の疑問も持たずに思っていた。
だが、伊達藩なら、「南部鉄器」じゃ、おかしい。帰って調べたところ、やはり以前は区別していて、「水沢鋳物(みずさわいもの)」と呼んでいたらしい。しかも、歴史はこっちの方が900年ほども古い。だから、流れも別物なのだが、近年、「南部鉄器」と呼ぶようになったようだ。
細かい事は調べきれていないが、おそらく、シロウトから見たら似た物→現在は同じ岩手県内→名前の上では「南部鉄器」が有名→だったらその呼称に統一した方が宣伝しやすい―という事じゃないかな。
今回は伺う時間がなかったが、この駅からそう遠くない所に「奥州市伝統産業会館」や「奥州市鋳物技術交流センター」といった施設もあるらしい。「奥州市伝統産業会館」は上からふたつ目の写真のモニュメントの後方のようだ。
一度、駅に戻る。
駅にはこんな横断幕。

いいね、大谷君。野球の才能も、さわやかそうな人柄も、好感度抜群。私もあんな風に生まれていたら良かったけど、今さらどうしようもない…。

さて、昼食。S保健師からは弁当を用意すると言って頂いていたが、自由に散策する時間を持ちたかったので、辞退。で、どうしようか、さんざん考えた。というのは、下調べしたところ、奥州市の水沢地域は、この新幹線の駅周辺よりも東北本線「水沢」駅の方が街としては中心的な様子。つまり、食事をするにしても、水沢まで移動してからの方が良さそう。
しかし、他に見ておきたい所と食事が出来そうな所も、少し離れていて、まったくの初回訪問の様子のわからない地域で、徒歩かタクシーだけという移動手段では、時間が読めないのだ。
で、何とか、水沢江刺駅の徒歩圏内に、ちょいとばかり面白そうな昭和の雰囲気の食堂を事前調査で見つけ、行ってみた。が、残念な事にお休みだった…。
そこで、もう一度駅に舞い戻り、構内の立ち食いそば屋で食べる事にした。

立ち食いそばといってもバカにはできない。この店も割合評判が良いようだ。メニューを見ると…。

右から、チャーシュー麺、めかぶラーメン、ときて、5番目。「長英そば・うどん」となっている。
長英=高野長英。先程紹介したようにこの地の偉人の一人。後藤新平同様、名前くらい聞いた事あるでしょう。江戸末期の蘭学者、蘭方医。その、お医者さんの長英にちなんで、健康的なメニューって感じで、めかぶ・とろろ・ノリに温泉卵というヘルシー志向のそばのようだ。が…。この日は暑くて、冷たいそばが食べたかった私は、冷やしめかぶそばにした。
ちなみに、今回、高野長英に少しでも触れたのは、ここだけだった…。

この後、タクシーで、高野長英記念館や駒形神社がある水沢公園に向かう。桜の名所らしいが季節はずれ。それに、講演まで1時間を切っていたので、運転手さんにお願いし、駒形神社への参拝とほんの少しの散策の間、待っていてもらう事に。
このタクシーで、今回、私が一番驚く話を聴いた。
「岩手県には何度も来ているけれど、北部ばっかりでね、この辺は初めて来たんですよ」
「そうですか。岩手といってもこの辺と北部じゃ、言葉も違うでしょう」
「そうなんですか? 同じ旧南部藩なのに?」
「いえ、この辺は伊達藩なんです。南部藩との境目は北上の方の相去(あいさり)といったあたりでね」
「え~! そうだったんですか」
という次第。それで、さっき、鉄瓶の紹介の中で、南部藩がどうの、と、触れたわけだ。
さらに運転手さんの話は続く。
「南部藩と伊達藩の境目がはっきりしていなくて、ある時、両方の殿様が同時に城を出発して、会った所を境界にしようという話になったんだそうです。で、伊達の殿様は馬で向かったのに対し、南部の殿様はウシで向かって…。で、会った所を境界に決めて、お互いに去った。だからその場所を『相去』と言うんだそうですよ」
なんという、ノンキな殿様たちだろう。片方は馬、片方は牛。なのに、
「え! お前、ズルイな」
という事にならないで、
「ま、いいか」
って事か。
光景を思い浮かべたら、相当な笑い話であるが、運転手さんの作り話ではなく、懇親会の場でも同じような逸話をお聞きした。
これも帰ってから調べてみたが、実際には、そんなノンキなわけもなく、境界線は江戸幕府の仲裁で決定したようである。「相去」という地名も、もっと古くからあったようだ。
が、やはりこの逸話も良く知られているようで、調べた中では、お互いの殿様が「午(うま)」に乗って同時に立つというのに、南部の殿様が「牛(うし)」と読み間違えた―というのが出てきた。
これが本当だとしたら、伊達がだました、いや、南部が勝手に間違えた―とか、それが元での大いくさにもなろうが、そうなったという話は見当たらない。結果的に、何だか至ってノンキな逸話として残ったようで、東北人のおおらかさを印象付ける話である。
駒形神社。

陸中國一之宮という事で、この辺の中心的な神社なのだろう。

ただ、ご覧のように建物そのものは古くはない。平成15年造営だそうだ。
境内には、他に、山神社、鹽竈(しおがま)神社などもあった。

これが鹽竈神社。「鹽竈」(今の書き方だと「塩竈」。「塩釜」と書く場合もある)と言えば、宮城県塩竈市をすぐに連想する。なるほど、伊達藩だなって、ここを見て思った。
神社を出てすぐ向かい側には、この辺の三大偉人の最後の1人、斎藤實の銅像。

だが、失礼ながら、私は存じ上げなかった。先のお2人、後藤新平と高野長英はまあ、名前くらいは知っていたが。斎藤實は、海軍大臣を長く勤め、第30代内閣総理大臣だったそうだ。

短時間の観光を終えて、会場までタクシーで向かう。本当はもう少し回りたい場所もあったが、何をするにも中途半端な時間だったので早めの会場入りとなった。

地区センターって、私は聞き慣れないが、要するに公民館みたいなものかな。中に入って、2階に上がると、保健師たちの研修会場。その廊下で今回の連絡係をされたS保健師と、保健師長のIさんにお会いする。お伝えしていた時刻よりもかなり早く到着したのでビックリされたと、あとで頂いたお手紙に書かれていた。失礼しました(;^_^A
研修のテーマは「心の元気を育てよう! ~働く私たちのためのメンタルヘルス~」という事で、奥州市、一関市、平泉町、金ヶ崎町の保健師や栄養士さんなどが対象。保健師対象の時は、似たテーマが多い。本当に皆さん、日本中で疲れていらっしゃる。私のくだらない話でひと息ついて頂き、楽に考えるきっかけにして頂ければ良いが―と、いつも思う。
終了後、少し控室でお話しし、日本酒などのお土産を頂戴して1階に降りるとそこには「くらし・安心応援室」のHさん達が既にいらしている。そのまま慌ただしく次の会場に直行。
「くらし・安心応援室」は、「メイプル」という商業複合施設の中にある。スーパーなどの他に市の施設もいくつか入っているらしい。その中の会議室で「生活困窮者自立支援室職員研修会」。
研修内容を簡単に表現してしまえば、皆さんが抱えている事例についてお話し頂き、精神の側面からの助言をした―という事になるが…。生活困窮者というのは、単にお金がないとか仕事がないというのではなく、その背景にはさまざまな障害や適応困難な心身の事情などがあるのは普通の事。しかし、その支援を担当している皆さんは、精神の事もその他の事もあまり学ぶ機会がなく、ともかく日々、現場に追われているといったご様子。今日の先の講演もそうだが、支援する側を支えるシステムが、もっと整備されて行かない事には、支援者が潰れて行く事になるわけで、それをどうにかしようという動きがもっと出てくる事を期待したいと、前から思っているのだが、現実はまだまだ。
1時間、慌ただしくお勉強して、すぐに会場移動。歩いてそう遠くない所に案内される。

なかなかシャレた割烹であった。そう言えば、日本料理屋も、最近は東京や埼玉では多くがビルとかホテルとかの中にあって、こんな感じの落ち着いた瀟洒な戸建ての料理屋に入ったのは、いつ以来かな、と、懐かしい気がした。

料理もなかなかの物。この後にも、アユの塩焼きやら何やら沢山出てきた。美味しく頂戴し、研修よりも長い時間を店で過ごす、という珍しいパターンとなった。
さらに。帰りの新幹線の時間までにもう一杯―と、お連れ頂いたのがここ。

こういった店は東京にもないわけではないが、私は入った事がない。他のお客さんもいて、全部で8人くらいだったかな。もう、満員。無関係な男のお客さんが、何やら語り出したり、面白い経験をさせてもらった。
水沢江刺駅までお送り頂き、Hさんからも日本酒とご主人が書かれたという絵本を頂戴した。
「幻燈会の夜」という、明治29年の三陸大津波を物語った絵本だ。3.11のおよそ半年後に書きあげられたもののようだ。沿岸部で育たれたご主人の、三陸の海辺を繰り返し襲ってきた津波への思いが形になった貴重な絵本であった。
20:10発のやまびこ58号で予定通り帰路につく。盛り沢山の一日であった。

岩手県で話したのが9回になった。もっとも、そのうち5回は岩泉なので片寄りが激しい。
その次はどこかな。地元を除いて考えると、群馬県・鹿児島県5回、新潟県4回、和歌山県が3回―といったところか。しかし群馬もそのうち4回は沼田市、鹿児島県もそのうち4回は奄美大島と、岩手同様、片寄りが激しい。新潟は全部バラバラだけど。更に訪問回数と講演回数にも違いがあって、例えば奄美大島は地域としては2回しか行っていないが、2回目に3講演しているからこんな事になる。
自分でもどんどん訳が解らなくなりつつあるが、呼んで頂けるのは本当に嬉しいしありがたい。
何とか最低限の健康は維持して、もうしばらくは、あちらこちらにお邪魔したいものだ。

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