映画にみる(発達)障害
第8話「知的障害と犯罪の物語」
『二十日鼠と人間』(1992、アメリカ)出演:ジョン・マルコヴィッチ、ゲイリー・シニーズ、レイ・ウォルストン、ケーシー・シマスコー、シェリリン・フェン
アメリカの代表的作家ジョン・スタインベックの同名小説を基に、監督・製作・主演をゲイリー・シニーズが務め映画化したもの。なお原題の「Of Mice and Men」は「蛍の光」の作詞者、ロバート・バーンズの詩の一節から採られたもの。
知的障害をもつレニー(ジョン・マルコヴィッチ)はその怪力をかわれて牧場での肉体労働に就いては、様々なトラブルを起こし結局は職を追われます。
そのトラブルと言うのも、彼は髪の毛や動物の毛といったやわらかいものが大好きでいつもそれらを触っていますが、難点は力の加減ができないこと。
ついつい触りすぎてしまい、子犬やネズミを殺してしまうこともしばしばで、さらには女性の服や髪の毛を触ってしまい…
今回の表題「知的障害と犯罪の物語」は、浜田寿美男氏(奈良女子大学教授)の同名の論考からとってきました(「そだちの科学3号」(2004、日本評論社)に所収)。
この中で浜田先生は、犯罪には2つの舞台があり、第一の舞台には加害者と被害者そしてその周辺としての目撃者や関係者がいること、第二の舞台には「この犯罪が闇に葬られることなく、表に現れて法の網の目にかかれば、そこに捜査にあたる警察官、捜査の上で訴追にあたる検察官、被害者・被告人の立場を守り、代弁する弁護士、原告―被告のやりとりを裁き、判決を下す裁判官たちが登場する」ことを指摘しています。
そして「知的障害者の人々が登場するのはもっぱら第一の舞台」であり、「彼らが第二の舞台を動かす人物として登場することはない」と示しています。
これは当たり前のようなことだけれども、この単純な区分を立てることで、知的障害をもつ人々たちとそうでない人たちのあいだにある、日常的には目に見えない、しかしながら犯罪が起きたときにこそ明らかにされる「大きなコミュニケーションギャップ」が浮き彫りにされる、と言及しています。
映画の中で牧場主の息子の妻を殺めてしまったレニーは、実際に法廷にあがることはありませんでした。しかし牧場主の息子に追跡され、最終的にはこれまでレニーをずっと見守り続けてきた、心優しいジョージ(ゲイリー・シニーズ)によって「断罪」されます。
しかし、ジョージの行為を非難できる人がいるでしょうか?非難したとしても、やりきれない何かを多くの人が感じるのではないのでしょうか?
そしてそれこそが「知的障害をもつ人々たちとそうでない人たちのあいだにある、大きなコミュニケーションギャップ」であるのだと思います。