映画にみる(発達)障害
第9話第9話:「都市化がもたらした“障害者”」
『道』(1954年、イタリア)主演:ジュリエッタ・マシーナ アンソニー・クイン リチャード・ベイスハート
イタリア映画の巨匠、フェディリコ・フェリーニの名を世に知らしめることとなった作品。本作品はアメリカのアカデミー賞で外国語映画賞を受賞しています。
この連載も今回を残して2回となりましたが、ご紹介してきた映画はインターネット上で「障害者」「映画」などをキーワードにして検索をかけた結果の中で、頻度の多いものを中心に選んできました。
さて、今回ご紹介する「道」もそんな中の一つなのですが、本作を見終わって「この主人公(ジェルソミーナ)は(知的)障害とよべるのかどうか?」というのが私の率直な感想でした。
ネット上の紹介文では「障害を持った」という表現が多かったのですが、ジェルソミーナは会話はできるし、他人の気遣いもできるし、時にはウィットにとんだことも言うのです。
監督であるフェリーニがそのようなことを意識して主人公を設定したかどうかはわかりませんが、すくなくとも「主人公を障害者として見ようと思えば、見えてしまう私たちがいる」ということは間違いなさそうです。これはどういうところからくるのでしょう?
1つには主人公の描き方にあるでしょう。ジェルソミーナの表情ひとつとっても、さっき笑顔になったかと思うと直後にはうつむいてしまっている。また、大道芸をみて“子どものように”喜んでいる様からしても、喜怒哀楽など感情の表出が顕著なのですね。しかし、これだけでは「ジェルソミーナを障害者だと見てしまう私たち」は現れてきません。
もう一つは時代背景です。この映画の時代設定は明確なことはわかりません。しかしヒントとなるのは、ケンカをして警察に捕まった相棒(ザンパノ)をジェルソミーナが迎えにいくシーンです。そこにはアスファルトで舗装された道が出現し、近代的なマンション風の建物がそびえています。それ以外のシーンでみられる海や山や野原といった荒涼とした自然とはまったく別物です。
イタリアでこういった都市の近代化が始まったのは、第二次世界大戦が終わったとあとの「イタリアの奇跡」と呼ばれる1950年代だそうです。本作品が1954年作品であることを考えると、製作時期と時代設定はほぼリアルタイムだと考えてよさそうです。
では、この都市の近代化がなにをもたらしたのか?それはおそらくは「個人の感情表出を制限する社会」です。つまり「理屈で説明できないもの(感情)はないものとしてしまう社会」です。
この両者が合わさると、「子どもでもないのに“子どものように”楽しんでいる」→「感情表出が顕わ」→「理屈で説明できない」→「自分たち(という社会)には関係ない」→「存在しない(ことにする)」という展開が行われます。
最後の「存在しないことにする」からの展開はいくつもあると思いますが、その中の選択肢として「障害者というラベリングをする」ということが含まれるのでしょう。
このように考えると、これはジェルソミーナだけのことを描いた映画ではなくなってきます。アルコールに溺れながら各地を転々とするザンパノや彼をとりまく大道芸人たち全てが、当時の社会からは「存在しないもの」とされていたと考えられます。
フェリーニはそういう人々にこそ誠実な眼差しを送ったのかもしれません。