映画にみる(発達)障害
第10話「現代社会という自閉症」
『おそいひと』(日本)
主演:住田雅清、とりいまり、堀田直蔵、白井純子、福永年久、有田アリコ
これまでは自閉症者や知的障害者を題材とした映画をみてきました。障害者とよばれる人々を題材としたことで感動したり何かを学ばせてくれるような映画でした。それを撮ったのは有名な監督も多く、役者は名演技とよばれました。そして多くは名画とよばれるものでした。
最後にご紹介する「おそいひと」はそのどれにもあてはまりません。この映画で題材となっているのは重度の車椅子脳性麻痺の障害者です。嫌気がさすような映画です。監督は無名に近く、俳優ではなく実際に障害者が主演しています。日本で公開されるまでに製作から3年かかっており、今後も「名画」とよばれることはないでしょう。
この映画では障害者の狂気を描いています。無差別殺人です。映画を見終わってから、これを本連載の題材として採用するかどうか悩みました。「内容が障害者による殺人だから」といったありがちな理由・批判からではありません。この映画があまりにも内容を語ろうとしていないからです。
刻々と淡々と被写体を撮り続けるカメラ、映し出す映写機、日常的な会話としての台詞と怒号のように鳴り響く音楽、動かない観客…あまりにも映画的なものが劇場にはあるだけで、「障害について考える」ことをさせない、そこからは何も生まれてこないような気がするほどです。
これまでご紹介してきた映画ではその監督なり俳優なりの意図や「語り」が見えてきます。それはひとつの映画のあり方です。しかし、この「おそいひと」はそういったものをなるべく排除したところになりたっていて、製作者側の「語り」は映画を見た人に委ねられているのです。
そして私はこの在り方を障害者と現代の日本社会との関係にダブらせます。障害者は多くのことを語りません。身体的に語れないのかもしれません。あえて語らないのかもしれない。しかし最も悲しいことは語っていてもそれが語りとして成立しない、つまり我々がその語りを「聴いてない」「ないことにしている」ことでしょう。
そういう状況の中でこの映画は、あえて語るのを止めたように見えます。意図した語りを排除するという一見矛盾した鮮烈な方法をとることで、観客を含めた社会に聞く耳をもたせようとしているかのようです。
そしてその結果、「感動」や「名画」といった賞賛とは対照的な「酷評」を受け、なかなか日本国内での公開にいたらないという世間の「拒絶反応」と供に、その目論見は成功しました。
「困難なことかもしれませんが、障害者が自分たちの文化を取り戻す作業が必要だと思います。障害者も障害者の世界に閉じこもらず、もっと、いろんな人たちと協力し合い、文化創造を力強くしていかねばならないと思っています。」(主演者の言葉/劇場版パンフレットより引用)
彼らの思惑は現実となって動き始めています。我々はそれにどう対峙すればいいのでしょうか?「福祉」や「支援」といった既存の枠組みのままでいいのでしょうか?「閉じこもらず」「協力して」「創造を力強くしていかねばならない」のは我々かもしれません。