百花繚乱
第1話曼珠沙華
「ただいたま戻りました!」。今の私の心境は、まさにこのような気持ちです。歳月の流れは過ぎてしまえば本当にあっという間で、前回執筆させていただいた『風雪人生』から、8年近くの時が流れました。皆さま、お変わりございませんか? 今でも、パソコンやスマホで『風雪人生』を読んでくださる方がいて、「また花華先生の文章を読んで勇気や希望をもらいたい」と、本当にうれしい言葉を何度もいただく中、こうして皆さまとの再会が叶いました。
今回の総タイトルを決めるにあたり『百花繚乱』という言葉を選びました。前回の『風雪人生』のころは、前が見えない中、何度も立ち止まらなければ進めないほどの風に立ち向かうという事情がありました。今、56歳という人生の折り返し点をとうに過ぎ、少しは心が柔らかになり、道端の小さな花を見落とすこともない心境に落ち着き、「厳しさ」よりも「やさしさ」、そして歳を重ねることによって自然とわきでる不思議な色気……をタイトルにと考えたのです。たくさんの花がきれいに咲き競う様子という意味もあり、読んでくださる大勢の皆さまが、日々の暮らしや仕事の中で美しくご活躍されるようにとの祈願も込めています。
前回の執筆時は、生まれ育った神戸の明石海峡大橋を目の前にしたオフィスでペンを走らせておりました。現在は、和歌山県のパンダで有名なアドベンチャーワールドのすぐ近く、白浜温泉の湯けむりのある黒潮台別荘地に暮らし、360度の大パノラマの太平洋を眼下に、この原稿を書かせていただいております。
『風雪人生』のころ元気だった母は、3年前に亡くなりました。学生だった二人の息子も社会人になりました。この8年近くの間、うれしいこと、悲しいこと、迷うこと、そして少なからず大きなことがございました。中でも母の死は、自分でも驚くくらい大きな出来事でした。現在も折に触れ、いろいろ想うばかりです。母を花で例えれば、そうですね……カトレアかな。地味ではないのですが、すごく派手でもない。母は良く言えば自由奔放、悪く言えば自己中心的な生き方の人で、生前は娘の私でも何度も迷惑をかけられました。また、母なりの努力はしていたのでしょうが、報われることの少ない人だったように思います。
私は母と一緒に買い物に行った覚えもありませんし、誕生日に祝ってくれた思い出もありません。結婚のときも、世間で言う花嫁道具は座布団一枚も持たせてくれませんでした。そんな母のもとで育った私は、自分の意思とは全く関係なく、小学校6年間の間に4回も転校し、そのたびに名字が変わりました。自分の名字を間違えないように何度もノートに書いて練習しました。知らない人を急に「お父さん」と呼びなさいと言われても、まだ幼い私には受け入れられないことの連続でした。書けば切りがないほどの波乱万丈な人生の背景に、母はいました。
そんな母を温かいとか恋しいとか想うはずもなく、憎しみではないけれど、私にとっては常に「うっとおしい」存在でした。ですが、母は仕事が夜の仕事でも、お金がないときも、どのような状況でも、いつもおしゃれできれいな人でした。ですから、「母」よりも「女」だったのかなと、私もこの歳になってようやく思えるようになりました。女でなければ分からない哀しみや、母でなければ分からない子への想い、美しさへのこだわりなどが少しずつですが分かってきた気がします。
最近、ふと気づいたことなのですが、母が生きていたころは「こんなこともしてくれなかった」「あんなこともさえしてくれた覚えがない」とマイナスの感情ばかり抱いていたのに、母が亡くなってからは「これを食べさせてあげたかった」「この景色を見たらどれほど喜んだだろうか」など、母に対する後悔ばかりが心に滲み出すのです。直腸がんで、本当にあっけなく76歳で亡くなりましたが、しわ一つない美しい母でした。
そんな母は、何もしてくれないことに対してずっと憎しみに近い感情を抱いていた私の前で、最後の最後に見事な逆転満塁ホームランを打ってくれました。痛みを抑える緩和ケアを受けている母を見舞いに行ったときのこと。看護師さんからは「せっかく遠方から来ていただきましたが、薬のせいで娘さんかどうか分からないかもしれません」と聞かされました。私も医者の女房です。一般の方よりはこのような場面の知識はあり、覚悟もありました。ですが病室に入ると、その心配をよそに母は私をすぐに認識し、私の二人の息子に対して「男前に立派になったなぁ」と言い、別れた私の実父や義父(母にとっては夫たち)の愚痴をこぼし始めました。本当に「この母が余命いくばくもないのか」と疑うくらいでした。
私は、母が生きているうちに一つだけ聞いておきたかったことがありました。「お母さん、愚痴ばっかりの人生やった中で、幸せやなぁと思ったことは一回もなかったん?」と尋ねると、母は「そうやなぁ……」と遠くを見るような目をして、ポツリと「あんたが生まれたときかなぁ」と言ったのです。母が産んだ四人のうち、私は最初の子でした。この母の形見ともいえる最期の言の葉は、これまで母を重しに感じて生きてきた私の心を一気に駆け抜け、思い出を“総ざらい”しました。「お母さん、卑怯やわ……」と心の中でザアザアと音を立てて涙を流しつつ、夕暮れの神戸の病室で母娘の最後の時を過ごしました。
思い起こせば、手術室に「じゃあね」と手を振りながら入っていく後ろ姿、私の講演やインタビューの記事を切り抜いてスクラップしていた姿……形はちがっても、この一つ一つに、母の想いがあったのでしょう。実家がなくなり、私は「ただいま!」と帰る家をなくしました。この『百花繚乱』に「ただいま!」と帰ってこられたことで、また実家に戻れた気持ちでいます。
今、白浜は黄金色の稲穂が風に揺れ、その畦道には「曼珠沙華」(別名、彼岸花)※が真っ赤に咲いて、どこかはかなく美しく、懐かしい彩りの風景です。歳月がいくら流れようと、どんなに悲しいニュースが連日報道されようと、「母の心」は変わらぬと信じ、皆さまとのご縁を大切にしたいと思っています。私のつたないエッセイをお読みいただいた、ご感想やご意見を編集部までお寄せいただけましたら、励みになります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
さて次回は、どのような花が咲きますか。
花華拝
※曼珠沙華(彼岸花)の花言葉
「再会」
「もう一度あの人に会いたい」
※「百花繚乱」をお読みになった感想を編集部までお寄せください。著者の森岡花華さんに責任を持ってお伝えいたします。
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