風雪人生
第3話頬笑み
日本には、春夏秋冬(四季)があり季節も人生の山坂に例えられ、春は良い兆しがあったり苦労が報われたりすることに用いられる一方で、冬はつらいとか厳しいとか耐えるとか苦難を表現されるときに使われることが多いようです。
私がカラオケで歌うときに映し出される画面の背景は、いつも寒い寒い冬木立ちか、吹雪舞う漁港とか、女の一人旅で窓に映る自分の姿を寂しそうな顔で見つめている場面ばかりです。やはり人生の山坂のつらさを表現している曲が好きなのでしょうね。
私は講演会に招いていただいたとき、「人生には、三つの坂がある。一つ目は、上り坂。二つめは下り坂。三つ目は『まさか』です」とよく話します。この『まさか』は、あまり幸いなことではなく、どちらかといえば、病気や事故など、思いがけず訪れた不幸を指す場合がほとんどです。
毎日、それなりに精一杯生きていても、人を傷つけたりしなくても、天変地異も含めて我々の一生で『まさか』との出会いは、避けて通れないのです。ただ、この『まさか』の出来事に遭遇しても、心の持ち方で大難を小難に、小難を無難に変えることができます。
その大切な心の持ち方を教えてくださった方は、若いころからの喫煙が原因で喉頭がんになり、命と引き換えに声を無くされた方です。現在は、喉に特殊な器具を装着されて、息を使って言葉を話されていますが、この器具を使用するリハビリも相当大変だと伺ったことがあります。
やはり声が機械的になるため、聞き慣れない方は初めは驚かれると思いますが、その方はいつ出会っても満面の笑顔で話されるので、声のトーンとか音質はまったく気にならず、話をするときは笑顔で語るべきであると教えられます。
私は、学会に参加しても、ほとんどの発表が頭にも心にも残りません。それは、学会という無機質な体制にもあると思うのですが、せっかく日夜努力された貴重なエビデンスをスクリーンに映し出して原稿棒読みで発表するのではなく、顔を向き合わせた語りがあってもいいのではないかと思います。
苦労の末の結果発表なら、感涙があってもいいと思うのですが、どうも学会は淡々と発表する場であるようで、いつも違和感を覚えてしまいます。5~6分の限られた時間しかないので、苦労を語るよりは取り組みや成果を語ることの方が優先されるのは仕方ないのかもしれません。でも中には、珍しいですが穏やかな表情で的確に発表されている先生が登壇されるときがあり、そのときは会場の空気が和みます。
先ほどの喉頭摘出をされた方も、未成年者の喫煙防止のために、小・中・高校を訪れては自らの体験をもとに防煙教育に全力を注がれています。体がおつらいでしょうといたわっても、ご自分から弱音をおっしゃったことは一度もありません。
逆に私は寒い北の果てに一人旅に出る歌ばかりを選曲するので、心も倒れやすく、時々心の風邪をひいてしまいます。そんなときには、いつも「柴田先生、笑顔。笑顔でいきましょう。泣きながらでも笑うのです。そうしたら、少しは楽になります。私はいつも自分にも言い聞かせています」とメールをちょうだいします。
その方に「私は歌が好きだ」と話したとき、「自分も以前はよく歌っていました」とおっしゃっていました。そのとき私はその方から反省する機会をいただきました。「声を失って、歌うことができないつらさも乗り越えて、今は器具を使って話すことで多くの子どもたちに命の大切さをそれこそ命懸けで訴えておられる。私は好きな歌を歌えるだけでも幸せなのに、なぜ不服ばかりが心に次々と沸いてくるのか」と。
その方は声を失う事実を医師から告げられたとき、手術はしたくないと思ったそうですが、ご家族が「生きてさえいてくれればいい」と願ったため、手術を受け、今は「手術して本当に良かった」とおっしゃっています。
その方の温かい頬笑みは、「満面の笑み」が春真っ盛りの「花が咲く」と同義であるように、「頬笑み」には春先の「つぼみが開く」という意味があり、やさしいまなざしには、風雪を耐え抜いた雪の下から顔をのぞかせる福寿草のような温かさとやさしさがあります。
法句経の言葉にも「恨みは忘れるべし」という原始仏典の一つがあります。人はどのような恩を受けていようと、どのような義理があっても、最後の一言ですべてを忘れてしまうものです。人の恨みを受けない自省が必要ですし、「人を呪わば穴二つ」。自分もいつまでも恨みという苦しみから逃れることはできません。
「人を恨むことなく、人生の山坂を恨むことなく、頬笑んで暮らしましょう」これは病を克服された大切な方からの響く言葉です。
気候が暖かくならなければ花も咲かず雪も解けず、心も体も寒いままです。「笑う門には福来る」。やわらかな人を包み込む笑顔のやさしい人でありたい。
年齢を重ねるにあたって、すばらしい目標をちょうだいしました。
~今日の花華綴り~
「語りは少なくとも大らかな笑顔の中に人を助ける道がある」