風雪人生
第5話慈雨(じう)
東北地方に大きな地震が起きました。私は阪神淡路大震災の被災者ですので、人ごとではありません。
私が原稿を執筆しているオフィスのテラスからは、もう何もなかったかのように、穏やかな明石海峡が美しい光を照らしていますが、この海の底で、あの恐ろしい地震が起きたのかと思うと、自然の力の前では、我々人間の力は小さいものと思わざるを得ない気がします。
天変地異は、山の神や海の神の怒りだと聞いたことがあります。神様は、バチをあてて人を苦しめることが本位なのではなく、人間のおごりをおさえ、今一度、基本に立ち返り、自然の恵みに感謝し、何が大切なのかを改めて考えなさいと教えているのではないでしょうか。
普段、料金さえきちんと支払っていれば、スイッチひとつで電気がつき、蛇口をひねれば水が出て、ガスの火でお風呂に毎日入れて、温かい料理が食べられる。
地震でライフラインが止まったとき、一月の寒風の中、何時間もポリタンクをさげて給水車の配給を待つので一滴の水も無駄にできませんでした。ごちそうよりも、温かい汁物が飲みたかったですし、大阪の親せきの家に何時間もかけてお風呂をよばれに行き、湯船に浸かったときは涙が出たことを思い出します。
家族・親せき・友人・知り合いなど、自分のかかわりのある人を亡くしたり、行方不明になったり、完全に家が倒壊したり(私の自宅は半壊でした)、神戸市民全員が地震で大切な人や物をなくしたと言っても過言ではありません。
どこにでも必ず被災者がいるので、「自分の知り合いは無事だから良かった」という気持ちには、私はなれません。知らない人でも、何の罪もない人が亡くなったり、お年寄りが何もかもなくして泣いていたりする姿を見ると、さぞ心細さでいっぱいだろうと胸がはりさけそうになります。
東北地震と同じ時期、秋葉原で無差別通り魔殺傷事件がおこりました。被害者や遺族の方々は、天災に遭ったよりも不幸ですし、防ぎようがありません。地盤も人の心も基盤が崩れてしまっているのです。
このままでは、日本は駄目になると自然が警告しているのに、お金もうけや、自分だけよかったらいいという排他主義に対する反省も気付きもありません。平気で人を傷つけ、自然を壊すことを繰り返していく人間社会。自然も人間も我慢には限界があり、それを超えてしまったとき、一気に崩れるのです。
それを防ぐのはどうしたらいいのか、を今考えなければ10年先、20年先の日本は恐ろしい社会になっているように思います。でも今なら、まだ何とか間に合うギリギリの時だと思います。
自分が傷つけることを言っていないか、人をだましていないか、自分の家族さえ平和なら人はどうでもいいと考えていないか、などいろいろなことを省みて、お互いに一歩ずつ歩み寄り、真実の心をもって人に接し、温かい心や言葉をかけあうことで、きっと温かい連鎖が生まれ、人の心も結び合えるのではないでしょうか。
倒れた家は、もとに戻らないけれど倒れた人の心は、人の真実の心によって立ち直ることができるのです。
40年前に見た「ウルトラマン」には、地球を侵略しようとした宇宙人が地球人を見て、「こんな星はいらない。あと50年もしない間に、頭脳だけの心のない人間ばかりになり、ほうっておいても滅びてしまうので、我々はこの星はいらない」と言って去っていく場面がありました。
まさに当時の円谷プロが危惧した未来がここにあります。誰もが生きる意欲を失い、人をいたわる気持ちが乏しくなっていくことは、お金がないことよりも貧しいことです。かく言う私も、心が倒れそうな毎日を送る一人ですが、「約束」があるから、信じ合える人がいるから、こうして生きていけるのです。
梅雨時期の陰暦5月28日に降る雨を「虎が雨(とらがあめ)」と言い、この日、曾我十郎が死に、愛人の遊女虎御前の涙が雨となって降ってくると伝えられたものです。別名「虎が涙」とも呼ばれます。
雨は嫌われるものばかりではなく、干ばつが続いた後に降る雨を「慈雨」といわれ、歓迎される雨もあります。
地震の後には、なぜか雨が降ります。この雨で被害が拡大しないように。また、倒れた心の人々が一日も早く立ち直る慈雨の心の人と巡り会えますように。
日本人の心の復興と被災地の復興を同時に願うとともに、被災地でご奮闘中の保健師の方々のご無事とご活躍を神戸よりお祈り致しております。
~今日の花華綴り~
「造花は枯れないが、旬も生もない。生花は枯れるが精いっぱいあなたのために咲く」